カテゴリ
全体 はじめに 草花たち 虫たち 鳥たち 魚たち 爬虫類・両生類たち 哺乳動物たち 人間たち 花と虫たち 散歩道 私 樹木たち 釣り 家族 自然 展覧会 食 日本のこと 未分類 仕事 暮し その他の動物たち いきものたち 最新の記事
以前の記事
2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 2022年 05月 2022年 04月 2022年 02月 2022年 01月 2021年 12月 2021年 11月 2021年 10月 2021年 09月 2021年 08月 2021年 07月 2021年 06月 2021年 05月 2021年 04月 2021年 03月 2021年 02月 2021年 01月 2020年 12月 2020年 11月 2020年 10月 2020年 09月 2020年 08月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 05月 2020年 04月 2020年 03月 2020年 02月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 10月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 メモ帳
フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
例年、冬の間に、ちょっとしたプチ鬱状態が訪れる。
一見、私のことを社交的で明るく元気なおじさんと思っている方は多いかも知れない。 確かにそれも私の一面かもしれぬが、実は自閉症的なところがあり、人前に出たり社会的な付き合いが大の苦手なんである。 個展などでオープニングパーティをする人が多いが、私はこれまで一度もやったことがない。 マンツーマンで人と対話するのは嫌いではないが、多くの人を相手にするのは得意ではない。 だから、人里離れた山暮らしをするようになったのだと思える。 普段はいつも一人で仕事部屋に籠っているし、その状態が落ち着くのである。 決して孤独が好きなわけではない。連合いとばあさん(母)、犬と数匹の猫、亀、はいて、彼らとのある意味賑やかな暮らしである。 私にとって申し分のない暮らしである。 それが冬に入ると仕事も一段落し、毎日のように降り積もる雪に埋もれ閉ざされてくると、自然に自分と向き合うことになるのだろう。 真っ白な雪景色を眺めているうちに、ふと言いようのない「虚しさ」が湧いてくるのである。 それは若い頃から抱えて来た根源的な「虚しさ」でもある。 「こんなところで、おれは一体、何をやっているんだろう?」と。 一応、木版画家として30年も仕事をやって来た。 仕事の中には感動もあり、人たちとの喜ばしい出遇いも数々あった。金持ちではないが、貧窮することもなく、嫌なことはなるべくせず、好き勝手、我が儘放題の人生をやってこれたわけで、こんな幸せな人生はないと思うのだが、 しかし、何か虚しいのである。 自分の裡を覗いてみると、確かなものはないのである。 それはもう見事に何にも無いのであって、薄暗闇にポカンと空洞が空いているだけなのである。 こんなところで、このまま朽ちて死んでゆくのか、と思うのである。 その虚しさは根源的であるが故に、これまでの人生の、どんな歓喜も誉れも、すべてのものを色褪せさせてしまう。 「私とは何か?」「今、ここに、なぜ存在するのか?」「何をすればいいのか?」 そんな「問い」が浮かんでくる。 これまで幾度となく考えた問いである。 これまでと同じように解答なんて見つかる筈もなく、分からない。 「問い」自体が答えであるような、そんな根源的な問いである。 と、こんなことを書いているが御心配には及ばない。 こんな状態は私にとって生きるリズムのようなものなのだ。 「版画家」などという仮面を脱いで、本来の私に帰る儀式のようなものである。 人は仮面を被って生きている。知らぬ間に、その仮面を自分だと思い込んで。 「私は何々である。」というのが自己確立と思われている。西洋式のアイデンティティーの立て方である。 当たり前のこととされているが、それは自己規定であり、自分に都合のいいレッテルを自分に貼り付け安心しているに過ぎない。 或は、自分の周囲に親や世間に期待されるような自分を作り、それを自分だと思い込んでいる。 しかし、それらは真の自分ではなく、あくまでも仮面なのだと思う。 その仮面をなるべく立派なものにし、強固にすることが意義ある人生であると世間では思われているようだが、それがどんな立派な仮面であろうが、そのうちに仮面によって自分が疎外されたりもする。 パーソナリティというのは人柄とか人格という言葉だが、もともとペルソナ(仮面)という言葉に由来する。 我々の魂は傷つきやすい。大人になるにしたがって少年少女の頃のむき出しの魂のままでは傷だらけになってしまうので、対社会に対して何らかの仮面を付けなくては生きていけないのだが、必要以上に仮面が肥大し、強固になり過ぎているのが現代ではなかろうか。 安富歩という複雑系科学者がいる。彼は仮面が肥大し、それが仮面であることさえ気が付かず、仮面を生きてしまうことを「魂の植民地化」と呼んでいる。 彼によると、現代の日本は仮面と立場ばかりが前に出て仮面舞踏会のようであり、そこに民がいないという。民は立場の材料に過ぎないと。これを「立場主義」というらしい。 要するに世の中のことは「立場の生態学」で動き決まっていくのだと言う。それが事実なら恐ろしいことだ。 日本は民主主義であり、国民主権の筈だが、最近の政治の動向を見る限り、残念ながらそれは表向きの顔でしかないように思えるし、安富氏の指摘は否定できない。 現に脱原発を希望する国民の声が過半数を超えても、いざ選挙となるとその声が圧殺されてしまう事実や秘密保護法という危険極まりない法律が国民の8割の反対の声も無視され成立してしまう現実も、また戦争へと突き進む現政権を多くの国民が支持していることも、それが原因の1つだと思われてならない。 どう考えても、これからの日本は脱原発へと向かうしかないのだし、民を回復させ民のための政治や社会機構を新たに構築し、戦争などない世の中にしなければと思うのだ。 それは長い道なのだと思うが、その問題はよく考えてみれば、私の生き方の問題でもある。 その根っこにある仮面の問題である。 確かに、仮面を強固にし、固定化することは安定と安心は確保できるのかも知れない。 しかし、固定化するとつまらないのである。そんな自分に飽きて退屈するのである。 退屈こそ日常の闇である。 いつも新鮮な自分でありたいと願う。そのためには仮面を脱いで、もともとの私に戻り、私の魂を蘇生させる必要がある。 仮面を脱いで、真の私を生きたいと願うこと。 そこから新たな私が始まり、日本も世界も新しく始まるのだと思えるのだ。 大袈裟な話ではなく、ごく当たり前の話として。 だが、仮面を脱ぐということはどういうことか? どうしたら脱げるのか? これが実に難しい。 自我意識や意識構造では脱げないからだ。 例え、脱いだと思っても、それはまた自分に都合のいい新しい仮面を付けることに他ならない。 要するに自力ではどうにもならないのである。 何かの事件によって、或は外からの何かによって 自我意識が破られ、「自分」というものが壊されること。 壊れるというのは楽しいことじゃない。嫌なことだし痛いことだ。 でも、壊れることで初めて新たな自分や世界と出会えるのである。 自我意識や意識構造とは違った、深いところでの自覚とも言える。 偉大な宗教家である親鸞さんはそれを「他力」という。 「愚かさ」という深い自覚によって真の自己と出遇うのだと言う。 愚かな自分であっても、そのままが肯定され、光に照らされてあること。 それは響いて来るような、身体を貫くような自覚でもある。 そして、それは心底ホッとできる場が開けることであり、その場は自在の風が吹き、新たな生命がどんどん湧き出るところでもある。 親鸞さんの道は悟って賢くなる道ではない。 あくまでも愚かな自分に帰る道である。 「愚かさ」に帰り、また帰り、自分と出遇い、また出遇い、そこから新たな自分が始まり、また始まるのである。 林竹二という偉大な教育学者であり哲学者の言葉がある。 壊れることは学ぶこと。 学ぶことは変わること。 変わることは生きること。 私の好きな言葉である。 今年の冬の憂鬱は正直、例年より重かった。 根源的な「虚しさ」に加え、ヘーちゃんの疾走事件、友人の離婚、さらに原発の現状、日本の政情の暗闇、世界の内乱、戦争などなどが私に流れ込んで来た。 しかし、憂鬱や虚しさは、それが深ければ深いほど 仮面を被り小さな安定に胡座をかいている私をハゲシク揺さぶってくれるのである。 その揺さぶりこそが自分に向き合い、仮面を脱ぐ唯一の契機になるのだと思える。 また、憂鬱や虚しさは、このブログに書いて来た暮らしの周囲の小さな野花や虫や鳥、生き物たち、空や星たちの美しさをよく見せてくれる。 案外、充実して調子の良い時に限って周囲のものが目に入らぬものである。 真の美しさは私が見るのではなく、向こうから目に飛び込んでくるのである。 小さな名も知らぬ野花ひとつに、世界の全てを見るような鮮烈さである。 誰に見られることもなく、ただ渾身の力で空に向かって自らを咲かせている。 その存在の輝きが、美しさが、不思議さが貫くように私に響いてくる。 それはまさに、存在の響き合いとでもいうような出遇いであり、 見ている私とて、今、ここに、輝いてある、不思議な存在であることを改めて知るのである。 そうして周囲を見渡せば、野花だけではなく、あらゆる生きとし生けるものたちが、山が、空が、私までもが、キラキラと輝き生きているのである。 「真の私を生きたい」という願いが私の根底に脈々と息づいている。 根源的な虚しさは私を立ち止まらせ、仮面を脱ぐ契機を与えてくれるが 周囲のあらゆるものたちはその生命の輝きと美しさで私を励まし、私の新たな始まりの契機を与えてくれるのだ。 ここから、また新たな私がはじまるのである。
by gorosuke85
| 2014-03-25 11:17
| 私
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||