今年はフキノトウが少ない。
いつもなら残雪を押しのけるように出て来るのだが、
今年は雪がなくなってからやっとあちらこちら顔を出した。
巷で桜満開の便りを耳にするこの頃、奥能登のこの地は未だ梅さえ開かず
冬枯れの無彩色の風景の中に春の色を点けるのはマンサクとフキノトウだ。
道端の積った枯れ葉の下から淡い瑞々しい緑色。
中を覗くと小さな花の沢山の蕾がびっしりと並んでいる。
フキノトウは勿論蕗の花株だが、♂と♀がある。
こいつは♂。
そして、こいつが♀。
よく見ないと分からないが、なんだか存在感が違う。
♂は暫くするとしぼんで消えてしまうが
♀はとうがたってグングン伸び、
やがてタンポポのような綿毛の種を飛ばすのだ。
やはり、植物も♂は虚しい存在なんである。
しかし、この虚しさこそが何かを生み出すんである、と
世の♂のために言っておく。
道を歩きながらフキノトウを見て回っていると
ひとつひとつの顔があることに気が付く。
ちいさいやつ、でっかいやつ、笑っているやつ、じっとこちらを見つめるやつ
どうだ!!と威張っているやつ、恥ずかしそうにそっと佇んでいるやつ
みんなそれぞれの、自分の顔を持っている。
当たり前のことか。
でも、そう思ってフキノトウを見て回ると
なんだかな、
みんな楽しそうな顔なんである。